歴史

増田神社は102代後花園天皇の御代文安年中(1444年〜1448年室町時代)に南朝の忠臣菊池武光の一族である菊池豊後が奥州に下向して、居をこの地に定めた時、豊後は大和国の生まれから同国城上郡笠山の社より分霊して手倉田に祀った。その後永正年中(1504年〜1520年)に菊地左馬助の代に現在の地に奉遷した。もと、笠山大荒神と称した。

天正十八年(1590年)「大崎・葛西の百姓一揆」が発生し、米沢の伊達政宗と若松の蒲生氏郷が秀吉より百姓一揆鎮定を命じられた。その時、徳川家康が兵を率いて将軍として奥州に入り、伊達政宗と協力して、一揆を鎮定した。翌年九月徳川家康と蒲生氏郷が戦勝を祈願したと伝えられる。

文禄元年(1592年)秀吉の朝鮮出兵命令で伊達政宗が兵三千を従えて出兵の際に武運長久を祈願している。

また、仙台二代藩主伊達忠宗が鷹狩りの折に参詣し神社周辺の土地数百歩を寄進している。

安永二年(1773年)五月に菊池歌之助昌澄が社殿を造営するなど武門武将の崇敬篤く地元のみならず仙台城下からも参詣人が多数訪れていた。

明治維新の神仏分離令後に明治政府の町村合併で、増田町・下増田村の一部・田高村・上余田村・下余田村・手倉田村が合併し、各町村に所在した神社を合祀して、明治四十二年一月に社号を増田神社と改称した。

即ち増田町の笠山大荒神社を明治の初めに笠山神社と改称し、同神社が明治五年に村社格となった。さらに明治四十二年一月に手倉田の諏訪神社・田高の神明社・上余田の天神社と琴平神社・手倉田堰根の玉嶋神社を合祀し、明治四十四年六月に下余田の鹿嶋神社を合祀した。

昭和十年九月に神餌幣帛料の供進社に指定された。

以上歴史的にも由諸ある神社で地域の多くの方々から氏神として厚く信仰されている。

社殿は流造りで拝殿は入母屋造りである。祭礼は元来は四月十五日であったが時代の推移に伴い四月第二日曜日となった。